林修の今でしょ!講座 1月24日 歴史ニュースまとめ

教科書が変わる!?

歴史の定説が塗り替えられた世紀の大発見ランキングをまとめました。

 

 

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第五位 伊達政宗は猛将ではなく「世渡り上手武将」だった!?

猛将と言われる伊達政宗だが、手紙から垣間見える意外な真実。f:id:japanese-standard0:20170124204939j:plain

 

実は伊達政宗が大きな戦で勝ったことがあるのは「磨上原の戦い」1回だけなので、

戦歴は大したことないとのこと。

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では、何故現代まで語り継がれる武将になったのか?

A.世渡り上手だったから!

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それを証明する物として、伊達政宗豊臣秀吉の呼び出しに遅刻し

たときに書いた謝罪の手紙がある。

当時の遅刻は厳禁で、遅刻をしたらお家潰し等の罰が当たり前だった。

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秀吉が北条氏に勝利し天下統一を決めた「小田原攻め」に

政宗は半年もの遅刻をした!

そして、政宗はこの時秀吉に「首をはねてくれと白装束を着て謝った」

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正宗の実力を承知している秀吉は自分の事を「殺しはしない」と判断し、

こんな大胆発言に及んだ。

 

当時の東北は田舎で政宗がいないと荒れる可能性が十分にあったので、

秀吉も正宗が必用だった。

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第四位 天草四郎は個人名ではなくユニット名だった。

 

天草四郎島原の乱を起こした歴史上の人物で、文献にはちゃんと載っている。

が、天草四郎は個人の名前ではなく、ユニット名だった!!

 

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当時天草四郎たは組織のシンボルであり、

四郎らしき格好をし人物はいっぱいいたとハッキリ書かれた古文書が見つかっている。

 

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そして、天草四郎といわれる遺体も十数体みつかっているとの事。

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さらに、小野小町も存在していなかったのではと疑われている。

恋歌の説明をする為に作られた架空の人物との見方が強い。

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そして、武蔵坊弁慶もしかり。

鎌倉時代の資料にも2回くらいしか出てこないのに、

室町時代の資料には多く出てきているので、架空の人物ではないかと言われている。

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第三位 豊臣秀吉は時代の先を読む天才経営者だった!

 

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秀吉が部下に送った33通の手紙が発見される!

この手紙で歴史学者は秀吉を最も優れた武将と判断している。

 

秀吉が子飼いにしていた脇坂安治

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この武将に

「勉強しろ」、「政治を学べ」、「デスクワークをしろ」と指示。

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そんな脇坂に天皇の家を建てる仕事を与え、

自分は北陸で戦争しているのに、

2ヶ月間で下記のような7通の手紙を送り部下を教育していた。

 

 

「材木担当の仕事を任せたのに雑にやるな!ちゃんと納品しろ」

「材木の数が分からんちゃんと書け!」

「支持した材木60本ちゃんと送れ!」

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この頃から秀吉は「これから先は戦ではなく政治の時代」になると判断していた。

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第二位 坂本龍馬の考えは西郷隆盛をオマージュしていた!?

 

 

坂本龍馬勝海舟にあてた手紙には

「船を軍艦にしたらいろんな所に行けなくなるから、商船にして商売をしようと!」

龍馬の具体的な貿易構想が書かれていた。

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しかし、龍馬の独創的な考えは実は西郷隆盛の影響をもろに受けており、

このアイディア自体は西郷隆盛の考え方。

 

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何故なら龍馬の手紙に書かれている具体的な貿易の仕方は、

当時の薩摩藩がやっていた事とまったく同じ内容だった。

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さらに龍馬は西郷を尊敬し、西郷は龍馬を可愛がっており、

その後、薩長同盟海援隊をつくるも龍馬の行動の影には必ず西郷がいた。

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第一位 坂本龍馬暗殺者の真犯人は新撰組三番隊隊長斎藤一だった!

龍馬暗殺は幕末最大のミステリー

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京都見廻組説が定説になっていたが、明治になって犯人が自首をしてきた。

しかし自白内容がコロコロ変わって、犯人はわずか2年で釈放されている。 

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新撰組三番隊隊長斎藤一が犯人になる根拠としては、

「龍馬が剣の達人だったから」

「暗殺の犯人は左利きだったのでは!?」

龍馬の額には同じ高さから切られた横一文字の傷跡がある。

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当時の武士は全員右利きに矯正させられているので、武士同士が向かいあって座る時はすぐに相手を斬りかかれないように刀を右に置く

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刀が右に置かれた状態で龍馬ほどの剣の達人なら、額に傷は負わないので犯人は左利きだったのではないか?と推測。

 

そして斎藤一は左手一本突きを得意技としていて、

剣の流派も不明なので、我流の可能性もある。

(道場に左利きの武士はいない)

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更に、東大教授は龍馬暗殺の黒幕は西郷隆盛だったのではと予想している! f:id:japanese-standard0:20170124205626j:plain

 

 

西郷は「幕府を力で倒したい」、一方龍馬は「内戦を止め海外と戦うためにみんな仲良くやろう」と意見が食い違いっていた。

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更に当時の薩摩藩は、「幕府を倒したと願う新撰組から分裂した御陵衛士」という組織を支援しており、その中に斎藤一も居た。

ここで、龍馬と斎藤一の接点が出来た。

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